2016年7月5日火曜日

静かに沈む

「おぼれている人は静かに沈んでゆきます。」
 
ライフセーバー講習でプロのライフセーバーは言った。
  
私は半年ほど前から、近所にある民営のプールで監視員のアルバイトをしている。10歳になる息子がそこのスイミングに通うようになったから、その会社にお願いしてアルバイトをさせてもらうこととした。40歳を過ぎて久しぶりの社会復帰。長く専業主婦をしていたから、社会で働くことは楽しかった。
 
監視員のアルバイトをするうちに、ライフセービングに興味を持つようになった。そして、七月最初の日曜日の今日、ライフセーバー講習をとあるビーチで受けている。
 
日本でもトップクラスというライフセーバーの鍛え上げられた身体は夏の日差しに照らされながら、ビーチに濃い影を落とす。ライフセーバー講習はビーチの一区画を区切って行われているが、その左右で海を楽しむ海水浴客の声はとてもにぎやかだ。
  
・・・・・・・
 
「おぼれている人は静かにおぼれてゆきます。一般的にイメージされるような、
 
助けてー、と大声で叫んだり、
海面で手をバタバタさせたり
 
するようなことはありません。
 
物思いにふけるかのように、静かにおぼれてゆきます」
 
 

ライフセーバーがそのようにいったとき、私が、ふと、思い出したのは高校生のころに亡くなった友人のことだった。彼女は自分の部屋で自死したのだけれど、本当に静かに亡くなっていった。
 
・・・・・・
 
「このCDあげるよ」
 
昼休みに友人が差し出したCDは アラニス・モリセットというカナダの女性アーティストの ” Jagged Little Pill ” というアルバム だった。私が欲しかったCDだ。
 

 
 


「え、なんで?いいよ。私、アルバイトして買うか、レンタルするから」と私は答えた。
 
「いいよ、あげる、私、飽きちゃったし、私にはちょっとザラザラしすぎてる」と、友人は言う。
  
  

 
「痛いんだよね、心に」
  
 
  
 

結局、私は友人からそのCDを借りることにして、カセットテープにダビングして返すことにした。
  
 
その日の夜に自宅でラジカセでダビングしようとしたら、兄がラジカセをもって外出してしまっていて、ダビングできなかった。しかも、その日、兄は外出先にラジカセを置き忘れてきて、持ち帰ってきたのは1週間ほど後のことだった。
 
兄がラジカセを家に持ち帰ってきたのは、彼女が亡くなった二日後だったと思う。
  
  
 
私はCDをダビングすることもなく、CDを返す相手も失ってしまった。
  
 
 
 
いま、思えば、CDを私に差し出した友人はぼんやりした顔をしていたように思う。もの思いにふけるかのような、何かを忘れてしまったかのような。
  
 
あるいは、どこかへ泳いでゆこうとしても、どこにも泳いでいけないことに気づいたかのような。
 
 
・・・・・・・
  
 
彼女が亡くなって、いくつかのうわさが流れた。
  
・父親か、親戚のおじさんに性的虐待を受けていた。
・この高校は進学したかった高校ではなくて、人生に絶望していた。
・両親の中が悪く、母親は精神を病んでいる。
 
など。
どれが真実か私にはわからなかった。友人と私はクラスメートだったけれども、私はそこまで彼女と仲良くなかったから。 
 
CDを私に渡したのも、私としては理由がわからなかった。私がアラニスのCDを欲しいと言ったことはあったけれど、彼女ひとりに言ったのではなくて、クラスの友だちがたくさんいる中で、話の流れの中で言っただけのことだった。
    
彼女が、私に何を感じ、何を思っていたのか、私にはわからない。
 
 

ただ、私がCDを彼女が亡くなる前に早めに返し、そのときなぜ私にCDを渡そうとしたのか訊ねていたら、彼女は亡くならなくても済んだかもしれない。
  
 

そんな後悔を、私は、もう何年も抱えている。
  
 

・・・・・・・
 
 
暑い日差しが照りつけるビーチでライフセーバー講習は続く。たくましい筋肉をしたライフセーバーが説明をしている。
 
「おぼれているとき、声を出して助けを求めることは、まず、できません。鼻や口は息をすることが主な目的であって、声を出す、ということは二次的なものなのです。
とくにおぼれている方にとっては、息をすることが口や鼻の最大の目的であって、そのときに同時に口や鼻を使って、声を出す、助けを求める、ということはできない、と思ってください。
 
おぼれている人は、息をすることで精いっぱいなのです。」
 
 
 
暑い日差しが彼の顔を照らす。7月第1週目の、梅雨明けしていない今日でも、夏の日差しが強い。
  
 
太陽が強すぎて、暑すぎて、私の意識も遠のいてゆく。
 
 
私の意識は過去へと沈み込んでゆく。
  
 
・・・・・・
  
 
亡くなった友人も、助けを求めることはできなかったのだろうか。
 
息をすることしかできなかったのだろうか。
  
 
おぼれていた彼女は、
 
生きることにおぼれていた彼女は、
 
息をすることだけが、最大限できることだったのだろうか。
   
 
そして、その息をすることさえも、やめたかったのかもしれない。
 
 
  
何らかの理由で。
 
 

 
彼女にしかわからない、何らかの理由で。
 
 
 
 
・・・・・・
  
 
彼女の死から25年が過ぎた。
  
 
いまでもアラニスのCDは私の本棚に残っている。
 
 
ときどき、アラニスの音を聴きたくてCDをかける。
  
 
10代の頃とは違う、40代になった私に聴こえるアラニスの叫びは、昔と同じようにザラザラで、心に痛く、そして、夏の日差しのように私の後悔に突き刺さる。
 

Alanis Morissette - All I Really Want

 


 


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