人前で泣くのがあこがれだった。もう何十年も。
最後に人前で泣いたのは小学6年生、12歳のときで、僕はクラスメートの前で泣いた。
そのとき、前日の工作の時間で作った作品を僕は友だちに盗まれて、次の日の工作の時間で、友だちは僕の作品を自分のモノだと言い張って、曲げなかった。
「おまえ、昨日までの形と全然違うじゃないか」と別の友だちが僕をかばってその友だちに言う。
「き、昨日の夜、家で作り変えてきたんだよ、ほ、ほんとだよ」と友だちが言う。
僕は友だちに自分の作品を盗まれたショックと、クラスの注目を浴びたことで、泣いてしまった。10分とか、20分くらい、涙が止まらなかった。
学校の先生もその場にいなかったのか、いても見知らぬふりをしていたのか、記憶は定かではないのだけれど、僕はひとりで泣き続けてしまった。
そのうちに、クラスの女子たちが
「いつまで泣いているのだろうね、男だろうに」
「泣いたって、何にもならないのだから、泣き止めばいいのに、バカじゃないの」
「みんなの前で恥ずかしくないのかね」
と言っている声が聞こえた。
その声を聴いて
「そうか、男は泣いてはいけないのだな」
「みんなの前で泣いてはいけないのだな」
と思った。
それ以降、人前で泣いたことはない。
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人は仮説に基づいて生きている。
「○○をすれば××になれる」
「△△をしなければ□□にはならない」
そんな仮説を、日々、強固にして、あるいは作り替えて生きている。
それが、生きづらさになっているとも気付かないで。
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その日、号泣すると決めていた。
心に作った強固な仮説をぶち壊す、と決めていた。
それで僕の心が傷つこうとも。
僕の心が何かを失おうとも。
創造と破壊。
まずは破壊。
その日、心を壊す、覚悟があった。
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数時間後、僕は壊れた心の跡地に立っていた。
内部崩壊を起こした建物のように、心は粉々に破壊されていた。
そうか、心が壊れた後の景色はこのように見えるのだな、と僕は思った。
僕の仮説は間違っていた。
その仮説を追い求めても僕はどこにも行けない。
そして、その仮説を捨てるため、僕は心と向き合い、戦い、そして勝つ。
もう、何年も信じ続けてきた仮説は僕を未来へ導かないと分かったから。
仮説が誤りだったと気づいたから。
長い時間をかけて、築き上げてきた 心 も。
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導いてきてくれた人の前で、涙が、止まらなかった。
感情のコントロールが効かなかった。
でも泣きながら、思った、こころよ、壊れろ。
これまでの仮説を踏みにじれ、と。
壊れて破片になって行く心が、涙でゆっくり濡れてゆく。
霧雨に降られる草花のように、濡れてゆく。
どれくらいの時間、泣いただろうか。
何十年とためた涙で心を浄化させた。
そして、いま、僕は新しい場所に立っている。
この先に、新たな創造が待つ道の前で。
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