2016年5月4日水曜日

You will stay in my heart.

初めて好きな女の子からもらったプレゼントは缶のペンケースだった。やや小さめのペンケースには、イギリス人風の男女のカップルと、金の鎖時計の写真があった。恋愛の終わりの、別れなければならない二人というそんなシチュエーションだったと思う。

その横に、この英文があった。

“ You will stay in my heart. ”

いつだったか、一緒に街の図書館で勉強しているときに、彼女がこれってどういう意味だと思う、とささやいた。

あなたは私の心にずっといるでしょう…

と僕が言うと、彼女はあきれて、センスないね、とつぶやいた。

ありがとう、だと私は思うよ。




あなたに出会えて、本当によかった、、、かな。




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彼女は生まれながらに体が弱かった。生まれたときに未熟児で生まれ、体の左半身にまひが残ったと言っていた。体の成長も左半身の方が悪く、歩き方も健常人のようには歩けなかった。いつも脚を引きずって、ぎこちなく歩いた。

僕らは中学2年の冬から高校1年の夏まで付き合ったのだけど、街中や人がいる場所で一緒に歩いたことはない。彼女が僕と並んで歩くのをイヤがったのだ。彼女は、僕が彼女と一緒に歩くと、僕が恥ずかしく思って嫌われると思ったらしい。そんなことはないよ、と何度も言ったのだけれど、彼女が僕と一緒に歩くことはなかった。

高校1年の春も終わりになった頃、彼女に何気なく、誕生日プレゼントは何がいい?と訊ねた。彼女の誕生日は9月終わりで、何か記念に残るものをプレゼントしたいと思ったのだ。

靴が欲しい、と彼女は言った。ヒールのついた靴が欲しい。

彼女は体の左右の発育のバランスが悪かったせいで、足の大きさが左右違っていた。右足は22センチあったのだけれど、左足は19.5センチしかなかった。いつも靴は合わないから、22センチの靴を買って、左足のつま先に布を詰めて履いていると言っていた。

一度、ヒールのついた靴を履いてみたい、と彼女は言った。彼女は体のバランスが悪いから、ヒールの靴を履くのは実際には難しいと思うのだけれど、同級生の女の子たちが休みの日にヒールの靴を履いて街を歩くのを見かけて自分も履いてみたいと思ったのだという。

いいよ、と僕は言った。靴をプレゼントするけど、プレゼントしたらその靴を履いて一緒に街を僕と歩いてくれる??

僕の問いに彼女は困惑したような顔をしたけれど、しばらく迷った後で、恥ずかしそう笑みを浮かべうなずいた。ステキな微笑みだった。


5月の終わりころから、街の靴屋さんを回って、彼女の合う靴が売っているか調べて回った。歩行困難者で、左右の足の大きさが違って、さらにヒールがあっても歩けるような靴があるかどうか。何件か回ったけれど、どこも難しいかもしれないですね、という回答だった。いろいろな街の靴屋さんを回って、諦めかけた最後のお店で、特別に注文すれば作ってもらえるかもしれないですよ、と言われた。

福岡の方に障害のある方専門の靴メーカーがあるらしい。そのメーカーの連絡先を教えてもらって、電話を掛けると、大丈夫だと思います、との回答だった。パンフレットを取り寄せて、彼女に色やデザインを決めてもらって、何度か電話や手紙で何度かやり取りをして、おおよその注文が終わった。オーダーメイドの靴で高めだったから、僕の手許の貯金では足りなかったけど、夏休みの間アルバイトをして稼いだお金で払いますと確約したら、了解してもらえた。

そのことを彼女に言うととても喜んでくれた。心の奥から喜んでくれた。

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夏休みは、長野でホテルを経営する叔母のところでアルバイトすることにした。子どものいない叔母夫婦は僕を自分たちの子どものようにかわいがってくれていて、小学校の頃から僕が高校生になったらアルバイトに来なよ、と言ってくれていた。僕もホテルの仕事に興味があったし、長野のホテルだったらアルバイトしても学校にばれないと思ったから、両親を説得してアルバイトに行った。

彼女とは1ヶ月以上会えなくなってさみしいけれど、そのアルバイト代で彼女に靴をプレゼントできるのだと思うと、その喜びの方が勝った。

アルバイト期間中、彼女とは電話や手紙で何度も連絡を取った。叔母のホテルは個人経営にしては大きなホテルで、特に夏の間は宿泊客が多く、朝から晩までとても忙しくなかなか時間がなかった。夜は彼女に電話しようと思っても、疲れて寝てしまうこともあった。彼女もそんな僕を気遣ってか、あまり電話してこなかった。

電話越しでに彼女の具合が悪そうなことに気付いたのは8月中旬頃からだったと思う。ちょうどお盆休みで忙しさのピークで、宿泊客もとても多い頃だった。僕は心配だったけれど、彼女も電話で大丈夫だというし、彼女が体調を崩すのはよくあることだったから、大丈夫だと思った。今から思えばもっと彼女のことを気にしてあげるべきだった。

彼女の体調が急変したのは、8月下旬のアルバイトもあと2日後で終わるという日のことだった。その前夜、彼女のお母さんから僕の働くホテルに電話があって、彼女が危篤に陥ったという。風邪の菌が肺や心臓に入ったとか、実は7月下旬から体調が悪かったとか、そんなことを言われた。

翌朝、急いで長野のホテルを出て、静岡に戻り彼女が入院しているという病院に駆け込んだけれど、彼女はすでに息を引き取った後だった。そんなに早く死ぬわけないじゃないか、と思ったのが、その時の最後の記憶だ。


それから数日間のことはほとんど何も覚えていない。お通夜や葬儀のこと、火葬場や彼女の骨を拾ったことなど、かすかに覚えていることもあるけれど、断片的な記憶だ。大勢の中学の同級生が僕に声をかけてくれたようだけれど、僕はまったく覚えていない。


靴が届いたのは彼女の誕生日の3日前のことだった。9月下旬の雨の日。力なく箱を開けると、彼女らしいかわいらしいデザインの靴が入っていた。赤くてリボンのついたヒールの靴。右が22センチで左が19.5センチ。

その靴を見たとき、僕は初めて大声をあげて泣いた。それまでまったく泣いていなかった、と一瞬気付いたが最後、泣かずにはいられなかった。その後、何時間も何時間も僕は泣いた。夜が明けて朝になっても僕は泣き続けた。


彼女が亡くなった後で、僕は心を閉ざしてしまった。心を閉ざそうと思ったわけではないし、心を閉ざしたい、と思ったわけでもないのだけれど、誰の言葉も僕の心に届かなかった。誰の言葉も僕の救いにならなかった。

僕はただ淡々と残りの高校生活を過ごし、淡々と大学を受験して、かろうじて合格した大学に進んだ。

大学で僕は深い付き合いをする友人を見つけることはなく、新しい恋人を見つけることもなかった。学校がある期間は平日はただ大学に行き単位を稼ぎ、週末は引っ越し業者のようなあまり人と話さなくても済むアルバイトでお金を稼いた。夏休みなど長期の休暇の時には、長野の叔母のホテルでアルバイトをしたけれど、あまり愛想がよくないとの理由で接客ではない仕事に回された。思い返せば僕はずっとアルバイトをしていた。アルバイトをしてお金を貯めていた。

お金を貯めていたのには理由がある。お金を貯めて、大学3年が終わったら1年間大学を休学しアメリカに旅行に行こうと思っていたのだ。

英語が好きでアメリカに憧れていた彼女はいつかアメリカを長く旅したいと言っていた。その夢を僕がかなえよう、と思った。もちろん彼女は死んでしまったけれど、その分身でもある赤い靴と一緒に僕はアメリカを旅しよう、そう思っていた。

そして大学3年の3月上旬、僕はアメリカ・ロスアンジェルスに降り立ち、1年間にわたって長い旅をする。途中ビザの関係でカナダや、メキシコに渡りながら、アメリカ中のいろいろな都市や街を旅してまわった。

基本はヒッチハイクで、バックパックひとつで回ったのだけれど、出会うアメリカ人はおおむね親切だった。僕がかなり汚い格好で旅していると、お前は何で旅しているのだ、とよく尋ねられた。

僕が正直に、何年も前に亡くなってしまった彼女の思いを遂げるために、彼女の分身であるこの靴と一緒に旅をしているのだ、と彼らに言うと、彼らはみな同じように感激してくれて、ある人は自分の家に何泊も泊めさせてくれた。また、僕が行こうとしている街に友人が住んでいる人はその人を僕に紹介してくれて、泊まる先を確保してくれた。そんな風に世話を焼いてくれる人がたくさんいた。お金をくれた人もたくさんいた。お金をもらうのは気が引けたけれど、手持ちの資金がたくさんあったわけではなかったから、ありがたくもらっておいた。

この時、お世話になった人たちの連絡先をきちんと控えておいたのだけれど、旅の後半で手帳をなくしてしまったせいで、大半の人の連絡先はわからなくなってしまった。僕が無事に旅を終えたのか気にかけていてくれる方もたくさんいると思うけれど、連絡を取る方法がなかった。


そんな僕の旅のゴールはニューヨークと決めていた。彼女はニューヨークにとくに憧れていて、小学生の頃に一度行ったことはあって、とても楽しかったから、いつかもう一度ニューヨークに行きたいと言っていた。そして、僕は旅の最終目的地をニューヨークにしようと決めていた。

ニューヨークに着いたあとは、以前に紹介してもらった、セントラルパーク近くのアメリカ人のお宅にお世話になり、数日をニューヨークで過ごした。3月の暖かくなった日々のことで、僕が日本を発ってから1年近くが経過していた。

その日、僕は朝から街に出て、セントラルパークから南に下って歩き回った。午後遅くには自由の女神の近くに行き、1年間一緒に旅をしてきた彼女の赤い靴をバックパックから取り出しその像を見せた。彼女の靴がうれしそうに輝いたように見えた。


もういいよ、と彼女の声が聞こえた。


とても楽しかったよ、彼女の声は言う。


あなたと一緒にいろいろなアメリカを見て回れた。いろいろなアメリカの人に会えた。みんな親切でいい人ばかりだった。景色もすごくきれいだった。とても楽しかった。すごく満足。

でもいいよ、もうこれで終わりにしよう。君は君の人生を生きるべきだよ、君が私を生きることはないよ。私は私、君は君。君は君を生きて。


そんな声が聞こえた。自由の女神のそのはるか先の空から。春の暖かな風が吹くそのはるか先の空から。

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中学三年の終わり頃、彼女はこんなことを言っていた。

私の体が弱いのも、私の体の左右のバランスが悪いのも、個性なんだと思う。背が高かったり、目が大きかったり、髪にクセがあったりするのと同じように。良い悪いではなくて、そういうもの、それだけのもの。

もしね、私が若いときに死んでしまったとしても、その命の長さは私の個性だと思うの。80歳まで生きる人も、仮に10代までしか生きられない人がいたとしても、それはその人の個性なの。良い悪いとか、そういうものではないの、それだけのものなの。

それだから、良く聞いて、私に何かあったとしても、あなたは悲しまないで、悲しみすぎないで、早く忘れて、そんな個性を持った女の子もいたと思って、先に進んで。

そんな彼女の言葉を思い出しながら、ニューヨークのハドソン川に彼女の靴を流したとき、彼女のために泣くのはこれで最後にしようと決めた。そして僕は僕の人生を生きよう、そんな風に思った。

それ以降、彼女を思って泣いたことはない。

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彼女からもらったペンケースに書いてあった言葉をよく思い出す。


You will stay in my heart.


このペンケースも一緒にアメリカに持って渡ったのだけれど、メキシコに行ったときに、リュックをナイフで切られて、スリにあったときに、落としてなくしてしまった。夜で危険な地域にいたこともあって、探すのは諦めて翌朝探しに言ったけれど、もう見つからなかった。


そう、今では彼女がなぜこの言葉を僕にプレゼントしたのかよくわかる。彼女は知っていたのだ、自分の命が長くないことを、自分が長く生きられないことを。そして僕に託したのだ、僕が彼女を長く覚えていることを、少しでも僕の心に残ることを。


そして彼女は僕の中に残っている。彼女が亡くなって、25年という歳月が流れたけれど、僕は彼女と過ごした時間を今でも昨日のように思い出せるし、彼女の笑顔と彼女を好きだったという気持ちを当時と同じように、リアルに思い出すことができる。僕はその思いを大切にして生きてきた。

いつか彼女と再会することがあるとしたら、僕は彼女に言いたい。

You will stay in my heart.

ありがとう。君に出会えて本当によかった、と。






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