2016年5月4日水曜日

言葉を失い、言葉を取り戻した女性の物語

その同級生と会ったのは、タイ・バンコクにあるショッピングセンターでのことだった。

そのとき僕は10年勤めた会社を辞め、次の仕事を始めるまでの間に、世界を見てみよう、と家族を残してバックパック旅行に出かけていて、オーストラリア、ニュージランド、インドネシア、マレーシア、と巡って、そろそろ日本に帰ろう、と思ってバンコクに立ち寄っていたときのことだった。



バンコクのあるショッピングセンターで

「こら!!静かにしなさい!!」

と大きな日本語が聞こえてきたと思った、その声を発した女性がその同級生だった。


「T・・・」


と僕は思わずつぶやき、その女性は不思議そうな顔をして僕の顔を数秒見つめて、僕だと気付いた。


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その同級生とは幼稚園、小学校、中学校と12年間は一緒だった。共通の友だち、知り合いはたくさんいるし、同じクラスになったこともあった。


でも、その同級生の声を聞いたことはなかった。何年も一緒にいたと思うのだけれど、その同級生の声を一度も聞いたことはない。


その同級生は一言も話さなかった。このように書くと、信じてもらえないことも多いと思うけれど、その同級生は幼稚園や学校で一言も話さなかったのだ。


学校の授業で、先生に発表するようあてられても、黙って立ち上がるだけで、何も話さなかった。
仲の良い、と思われる女友達と一緒にいても、何も話していなかった。うなづいたり、微笑んだりしていることはあったから、友達が言っていることはわかっているようだったけれど、彼女が友達と話すことはなかった。


学校の先生も心配して、彼女と話すように心がけているようだった。放課後、担任の先生と彼女が教室や運動場、職員室で一緒にいるのを見かけたことはあった。先生は一生懸命話しかけていたみたいだったけれど、小学生だった彼女は何も反応せずに、先生の横で立ち続けるだけだったで、会話が交わされている様子はなかった。


彼女と仲の良い女の子の友だちに、彼女は話すのか、と聞いたことはあったけれど、やはり友達にも話さないみたいで、うなづいたり、首を振ったり、少しのリアクションをするだけで、それ以上のリアクションは誰にも示さないようだった。



彼女が話さない理由は誰にもわからなかった。女友達も彼女がしゃべるよう、心を開かせようとしたみたいだったけれど、できなかった。その友達たちも、小学校高学年になることには彼女を話させるのはやめて、一緒にグループにいるだけで、よし としているみたいだった。


男友達にとっては、彼女はいじめの対象だった。彼女は話さないし、泣きもしないし、からかいの対象で、バカにしていた。小学生の男の子は残酷だから、彼女にひどい言葉を投げかけていた。僕がその一人でなかった、とは言わないけれど、ひどい言葉を投げつけると、イヤな気分だけが残ったから、2回くらい言って、それ以降は言わなかった。


そんな彼女も、中学になると、同級生の興味は薄れて、誰にも気にされなくなった。その頃の僕らは、性とか、将来の進路とか、高校受験のことなどでいっぱいで、もう何年も話さない同級生の女の子のことなど興味はなくなっていた。


そして、僕らは中学を卒業し、各々の高校へと散っていた。それ以降、彼女が何をしているかは僕はまったく知らなかった。


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タイ・バンコクで大きな声で叱る日本語を聞いたとき、僕は1ヶ月離れていた日本が恋しくなるとともに、その声が元同級生から来たのだと気が付いて驚いていた。


(Tのヤツ、話せたんだ・・・)


と思ったのがその時最初に思ったことだ。


「何やってるの?」
「いや、バックパックで旅行していて、たまたまタイにいてさ・・・」


という会話を交わした後、かろうじて持っていた名刺を渡して僕らは別れた。



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そのバンコクの後、僕はカンボジア・シェムリアップにアンコールワット遺跡群を見るために飛び、アンコールトムで遺跡の写真を撮っているときに、彼女からメールが入った。




「いまどこにいるの?」
「アンコールワット」


「その後どうするの?」
「バンコクにまた、戻ったあと、日本に帰国する」


翌日、彼女からメールが入って、その内容は「バンコクで会って話がしたい」ということだった。


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数日後の正午頃、バンコクの空港に戻った僕を彼女は迎えに来てくれていた。タイ人のドライバー付きで、車はレクサスだった。


「すごい日焼けだね」と彼女は言う。
「1ヶ月、海外をぶらぶらしていたからさ」
「ふーん」



「お腹空いてる?」
「うん」
「火鍋でいい?」
「火鍋?うん、それでいいよ」


彼女はタイ人ドライバーに行き先をタイ語で伝えた後、店に着くまで何も話さなかった。


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店に着いて、向かい合いの席に座り、彼女を改めて見てみると、とてもキレイな女性だったことに気付いた。
長い髪はツヤがあり、キレイに整えられていて、化粧は薄く、ナチュラルだった。指輪を2つして、控えめなネイルも好感が持てた。目尻にしわはあったけれど、30代後半としては、とてもきれいな方だったと思う


「なぜ、バンコクにいるの?なぜ旅をしているの?」


と聞かれて、経緯を僕は話した。


10年勤めた会社を辞めたこと
将来やりたい仕事をするために、このタイミングで海外を見て回る必要があったこと
タイにはたまたまたどり着いて、偶然、あのショッピングセンターにいたこと

など。


彼女はあまり反応を見せずに淡々と話を聞いていた。


あまり会話も弾まないまま、お互いに2杯目のビールを飲み終えた辺りで彼女が話し始めた。



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私ね、3歳のときに話さないようにしよう、と決めたの。もう二度と話さないって。


私、母親に虐待されていたの。ひどい虐待。


よく殴られてた。頬を平手打ちされたり、背中をパシンと叩かれたり。

記憶に残っている最初の頃から叩かれてた。私、最初の記憶は3歳のときなんだけど、階段の上で叩かれて、そのまま階段から落ちたわ。おでこを切って、血がたくさん出た。血がたくさん出て、私、死んじゃうかもってその時思った。3歳の子どもがね、母親に虐待されて、死ぬかもって思ったの。それが私の最初の記憶なの。ひどいでしょ、心に傷が残って、頭にも傷が残ったわ。


(彼女は前髪をめくっておでこの傷を見せてくれた)


その時、私が何をしたかは覚えていない。たぶん何もしなかった。母親の機嫌が悪かっただけだと思うの。それで、階段の上でたたかれて、死ぬ思いをした。


血を流す私を見て、母親は何をしたと思う?


にっこり笑って、言ったのよ。




「お前はしゃべりすぎる」だって。





そのとき、私は一生話すのをやめようって決めたわ。




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店の外では、白いブラウスと紺のスカートをはいてタイの小学生20名くらいが、にぎやかに話しながら通って行った。集団下校なのかもしれないけれど、高級階層の出身であろう小学生たちは何の悩みもなく、豊かで、しあわせで、その将来は輝かしいものばかりであろうように見えた。


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それ以降、ずっと私は人と話していなかった。

3歳の時からずっと。小学生のときも、中学生のときも、高校生のときも。




私、自分がおかしいってわかっていた。たぶん、あなたたち同級生も同じだと思うけれど、一言も話さない子なんて変だよね。だから、あなたたち同級生が私をいじめたり、からかったりするのも、その気持ち、よくわかった。


でもね、私は必死だったの。言葉を発さないで、生きていくことに必死だったの。



私、何度も死のうとした、よく、小学校の屋上とか、マンションの屋上にいることを空想した。そこから飛び降りて、死んでしまうことを想像した。


でもね、できなかった。怖かったし、死んでからも母に怒られるのではないかと思ったし、それにね、正直、もう少し生きていたかった。もう少し笑ってみたかった。友達と話してみたかった。


でも、そんな私の希望を母は打ち砕いたの。3歳の時から、高校を出るまで、ずっと母は私をののしっていた。ののしり、さげすみ、バカにして、私を支配しようとして、私を生きたまま殺そうとした。


そんな中、私は声を殺し、自分を殺し、夢と希望と未来を殺して、生きてきたの。生き延びようと思った。何が目的かわからないけれど、生きていたいと思った。



そんな母と私の関係を見て、父は何も言わなかった。母にたたかれる私を見て、父は見ない振りをしていた。母が私をたたく音を聞いて、父は聞こえないふりをしていた。


いま思えば父も母の犠牲者だったと思う。気性の荒い母だったから、父も手立てがなかったのだろ思う。勇気のない、頭の悪い男だったから、自分から何かをすることはできなかったのだと思う。



そして、私は高校卒業と同時に家を出たの。母に何も告げずに。こっそり荷物だけまとめていて、母が買い物に出かけた間に、家を出たの。


それ以降、一度も家に帰っていない。両親とも連絡は取っていない。もう20年になるけどね。




実家を離れた後、東京、仙台、札幌、名古屋、と渡り歩いて、夜の仕事とか、お金持ちの愛人になったりして何年か過ごしたの。体を売っていた期間も何か月かある。でも、私には合わないなと思ってすぐにやめた。

ホントに悪い人たちに、誘われたこともあったけれど、なぜか怖くて、そちらには行けなかった。言葉も捨てて自分も捨てていたけれど、そちらに入ってはいけないと思っていた。



その後、主人と出会うのだけれど、主人と出会ったのは21歳のときだったな。私は、どうしてもお金がなくて、身体を売っていた時期だったのだけれど、先輩に連れられて、そのときの主人は無理やりお店に連れられてきたのね。


彼はその時まだ学生で、日本でいちばん優秀な大学に通っていたのだけれど、金融庁だか、経済産業省?に通う先輩に、社会勉強だからって、連れられて、彼はお店に来たの。


そして、一緒の部屋に入ったのだけれど、彼は服を脱がないし、私がさわっても嫌がるのね。私は機械的に済ませて、お金をもらいたかったのだけれど、彼はかたくなに断ってきたの。不思議だなって思った。こういう人もいるのだなって。


私、しゃべりはしないけれど、見た目はいいみたいだから、言い寄ってくる男はたくさんいたの。お店に出ているときも、たくさんの男が買っていってくれた。そういう男たちを軽蔑しながら、やりすごしていたけれど、自分がさらに壊れてゆくのを感じながらも、そういうものだって思ってた。それが私の存在意義なんだなって。


でも、彼と出会って、何か彼の中で違うものを見つけて、何かに気づいて、彼に連絡先を渡したの。普段そんなことはしないのだけれど、そのときはどうしても連絡先を渡したくて。

彼は戸惑っていたけれど、ちゃんと受け取ってくれて、それから1週間くらいして連絡が来たの。そして、外で会ったわ。


彼と会った時、「君は僕と似ている感じがする」と言われたの。それから彼は話したの。


彼が親に虐待されていたこと、勉強ばかりを強要されたこと、親の支配に置かれていたこと、屈辱的な思いを何度もされたこと、そんな経験から人に心を開けないこと、勉強でいちばんになることは多かったけれど、何も満たされなかったこと。


彼の心が壊れていたこと、彼の心が救いを求めていたこと。


彼に抱かれた後、私は彼に向って話し続けた。3歳のときに人に話すのはやめようと決めて、18年経って、ようやく話ができる、という人に出会ったことを。


一緒のベットに入りながら、3日間、私は話し続けたの。3日間、3日間よ。すごいと思わない。18年間、ひとことも話さなかった女の子が、3日間、ずっと話し続けたのよ。


さらにすごいと思うのは、そんな私を彼はずっと聞いていてくれたことなの。うん、うん、わかるよ、って相槌を打ちながら、3日間。トイレとか、食事の時もあったけれど、彼は大事な授業とか、実験やゼミを休んで、ずっと私の話を聞いてくれた。


私も、ずっと話し続けた。自分の境遇、感じてきたこと、いじめにあったこと、身体を売ったこと、心が崩壊したこと、ひどい思いをしてきたこと。
18年間、心にため込んだ想いの化石を吐き出すように、ずっと話した。




3日間話し続けた後、私は気を失うように3日以上眠り続けたの。彼もね、同じくらい眠り続けていたみたい。3日間、眠りもせずに私の過去の話を聞き続けて、とても疲れたみたいね。


そして、起きたとき、私たちの心は浄化されていて、結婚しよう、って決めたね。その日のうちに婚姻届を出して、この人のために、残りの人生を生きて行くって思ったわ。



その後、彼は大学を卒業して、日本でいちばんの商社に入って、10年前からタイに赴任しているの。私もタイに来て10年、その間に子供も生まれた。



私ね、タイに来てから、とても幸せ。友達もたくさんできたし、いろいろなところに行ける。マレーシア、シンガポール、インドネシアにも近いからすぐに行ける。幸い、彼がたくさんお金を稼いでくれるので、食べたいものや買いたいものも買える。


でもね、いちばんのしあわせは、私のことを受け入れてくれて、私の話をホントに熱心に聞いてくれて、私のことをいじめず、笑わず、優しく包んでくれる人がいることかな。
私は子どもの頃からずっと母に虐待されて、言葉も、心も、自分らしさも失ったけれど、それも今のしあわせを手に入れるために必要だった、と思えるようになった。






母を許しているか、というと許してないのだけれど、この年になり、子どもを持つようになって、母が当時感じていた苦しみとか、悲しみもわかるようになった。彼女は彼女なりにつらかったのだろうと思う。彼女も彼女の母親からひどい仕打ちを受けていたのかもしれない。正確にはわからないけれど、彼女を許してあげてもいいかな、と思う



でもね、同時に絶対許さない、という気持ちもあるの。彼女からされたことは絶対に忘れないし、許さない。彼女は報いを受けるべきだし、幸せになるべきではない。もし、彼女が幸せになれるのだとしたら、私は絶対に妨害する。




そんなことを彼に話すと、彼は何も言わずに聞いていてくれるの。彼もつらい思いをしてきていると思うのだけれど、私よりも何倍も心が広いのよ。



私たち夫婦はタイに10年もいて、そろそろ帰国の辞令が彼の会社から出ると思う。日本に帰ったら東京に暮らす予定だけど、実家には行かないと思う。



ううん、絶対に行かない。



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ふと気づくと、店の外は暗くなり、スコールが降り始めた。外を歩く人が足早に建物の中に逃げ込んだり、タクシーを呼んだりしていた。



強く降り続くスコールはいつまでもいつまでも降り続くように思えた。




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ひとつお願いしていいかな。



もし、私の両親と会うことがあったら、私が元気だと伝えて。



あなたたちのことを忘れた日は一日もないけれど、あなたたちのことを忘れたいと思わない日も一日もないって。




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その2日後、僕は日本に帰国し、自分の家族と再会した。僕の家族は温かく僕を迎えいれてくれて、1ヶ月に及ぶ旅の疲れは、消えゆくようになくなっていった。


家族っていいものだな、と孤独な旅を終えて僕は思った。


12月初旬に帰国した僕は、クリスマスに近くなった頃、実家に行き、彼女の両親に会いに行った。


玄関のベルを鳴らし、ドアを開けて出てきた彼女の母親は、僕が知っている女性よりもかなり老けて、小さくなっていた。



簡単に自己紹介をすると、彼女の母親は15秒ほど記憶を呼び起こして、ようやく僕に気づいたようだった。彼女の母親とは、小学校の行事で何回か一緒になったことがあったから、かろうじて僕のことを覚えていたようだった。


僕は簡単に近況報告をした後、彼女の娘とタイ・バンコクで会ったことを伝えた。



彼女が娘の消息を知るのは、ホントに18年ぶりだったようで、話し始めた瞬間、彼女は怒り、悲しみ、そして、泣き崩れた。



泣き続けるその母親に、彼女の娘の近況を簡単に話した後、彼女から預かった最後の言葉を伝えて僕は去った。



言うべきかどうか、ホントに迷っていたけれど、彼女の意志を尊重して僕は母親に伝えた。






彼女の母親の、その魂が抜け去ったような表情を今も僕は忘れることができない。





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そんな彼女の母親が亡くなったと聞いたのは今日から1週間前のことだ。僕の母が教えてくれた。



その連絡を受けたとき、あの母親の人生も終わったのか、と僕は思った。



娘に見捨てられ、決して幸福とは言えなかったであろう彼女の人生もこれで終わり、彼女の魂は最期に浄化されて旅立つことができたのであろうか。






彼女の母親の葬儀に同級生の彼女が参列したのか、僕にはわからない。





わかったところで、僕には何もできない。





失われた彼女たちの魂を救うことは誰にもできないのだ。

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